仕事を早く切り上げて、友人と自宅マンションで飲む予定でした。年度末で仕事は忙しかったのですが、週末の金曜日はゆったりしたいと考えていました。もう少しがんばれば楽しい週末だと思っていた午後2時46分、建物に大きな衝撃が起こりました。2011年3月11日の「あの日」です。
地震が来たその時、建物は激しい縦揺れでどれくらい続いたのかは覚えていませんでしたが、かなり長く強く「これはヤバい!」と建物の崩壊も考えました。その後、地震による被害の確認や安全確保を進めました。仕事場に出入りしている業者から、信号が消えていて街全体が停電だとの情報が。ラジオをつけると沿岸では海水が川を遡っていると。この時は、沿岸の惨状を知る由もありませんでした。
実家の両親の無事を確認してから、盛岡の自宅へと向かいました。その頃にはすっかり暗くなっており、国道を走る車のライトだけがやけに目立っていたのを思い出します。県全体が停電で、信号も当然ついていません。
次の日の夕方には電力も回復し、ガスや水道も復旧しましたが、テレビで見る地震と津波による被害に呆然としてしまいました。「あの日」からしばらくガソリンや食料やその他生活物資が不足して、不便な日常を過ごしましたが、とにかく沿岸部の惨状に心が痛みました。
あれから1年。今日のテレビは震災一色で、この1年人々がどう生きてきたかを放送しています。思う事はたくさんあるのですが、このブログを始めたきっかけはこの震災だったのだと今日改めて思いました。今住んでいる「岩手県」を”IHATOVO”とこのブログで記しているのは、震災から立ち直り宮沢賢治言うところの「理想郷としての岩手」を心から願っているからです。
この震災で失われたすべての命に哀悼の意を表し、すべての被災された地域がいつの日かそれぞれの”IHATOVO”となる事を願っています。
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